いまいひと物語
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間口一問、奥行半聞ということである。坪数にしてわずか半坪。いま、日本中どこを探してもこんな規模の店を見ることはできない。大人が数人座ればいっぱいになる。それどころか、今日なら、商売が成り立たないはずだ。つまり現在の商売の常識から言えば、お客の眼を引き、呼び込むところの陳列のスペース、ディスプレイの場所がない。庄之助は、そんな狭いところに商品の鍋や鎌、金網などを無理造り押し込んで商売をはじめた。最大初恐か慌ム(活昭前和量生'JU (}) だ前五去出発今井金物店が閉店した翌年世界大恐慌が起庄之助会長とカスコ夫人。創業の頃から「二人三脚」で力を合わせてきた。きた。ニューヨーク・ウオlル街の株式大暴落に端を発した世界的な不況の波は、各国の経済を揺さ振り、そして、日本の大都市、地方都市を覆い、もちろん石見地方も揺さ振った。就職難は深刻化し、一般の商店では棚ざらいの名目で特売が日常的になっていく。スタートしたばかりの店も金物の販売が思わしくなく、苦況に立たされた。そんなとき、庄之助は結婚した。相手は商売関係から紹介されたカズコである。小さな店、大不況、そんな中、まさに自ら進んで背水の陣を背負い込んだ感がある。この苦しい環境が、後の圧之助の忍耐強さを作ったと言う人がいるが、そうかもしれない。小さな店であり、得意客が少ないために、庄之助はリヤカーに金物を載せた。そして、東は祖泉津、西は浜田まで引っ張って、売り歩いた。その頃の口癖がカズコや身近にいた人を通じて伝えられている。「努力に勝る資本なし」丁稚奉公と石州商人道。実は、昭和3年の今井金物店旗揚げの前に、圧之助は一度勤めを経験している。やはり江津にあって、金物や雑貨品を扱う「平岡屋商店」に丁稚奉公したのであった。おそらく、金物の知識はここで仕入れたのだろう。ところで、当時の金物屋は、相当ハイカラな商売として位置づけられていた。いわば、時代の最先端の生活用具などが置かれていたのだろう。今で言えば、OA機器やAV機器のような商品のレベルと思われる。庄之助の商売に対する前向きな考えは、このとき下地ができたのかもしれない。平岡屋商店から独立し、初めて店を持ったとき、この経験が、生きていくのである。ところで、石見地方には起業家が多いことに気が付く。裸一質からスタートして努力に努力を重ね、城をたてた人々である。丁稚奉公を経験した人も少なくない。大正初期から昭和の初期にかけての時代は、世界第一次大戦の特需の波に乗って様々な商売による実業が形を成していった頃であるが、それの多くは東京や大阪といった大都市に集中した。しかし、石見にはこの地域に残って地道な努力を重ね、耐え、成長を遂げた人々もいる。浮わついたところがなく、内実を充分に持っそんな企業である。後の経済変動にも地道に耐えていく。基盤がしっかりしているから発展の下地もある。圧之助は、どうやらそんな石州商人の一人だったようである。そしてその陰には夫人カズコの内助の功に大きく支えられていたようである。今井金物店開業の翌年には、世界大恐慌が発生。小さな店は大ピンチに見舞われた。写真は保険解約のため大阪社会保険事務所に押し寄せた市民。23・立志編I1928年~1937年

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