いまいひと物語
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さんでもあった(ドイツのマーチン)。岩山〈日産業創設の頃、番頭をしていたのを、帰郷の際引き止めて、今井産業に入社させたという。いわば当時としては珍しいスカウト・リクルーティングをして入った人。H建設の今井Hに。フロの味を加えた人。青木新一さん元取締役。川戸の出身で吉岡家の遠縁にあたる人。鹿島建設仙台支店に勤務し、年末に帰郷したときなど必ず今井会長の家に寄り、すき焼きを食べながら中央の建設業界の話をしていた。その頃から今井会長も建設業に対し、興昧を持ちはじめたという。岩手県のある工今井の躍進を支えた事々。今井産業の歴史の中には、事業の展開のキーとなった事柄がいくつかある。それは、携わった今井人聞の努力の足跡でもある。事現場に駐在していたところを、吉岡家を通じスカウトした人。社内でも建設業に関心を持ちはじめた頃で、大手ゼネコンの経験を生かし、今井産業に、レベルの高い技術と精神を吹き込んだ。堅いことで天下一品目会長が感心したほどのH堅物u野原義若さん元常務取締役。有限会社として産声をあげたばかりの今井産業に初の総務畑のスタッフとして入社。真面目一徹の仕事ぶりで、今井の総務、経理部門を育てあげた。金銭面での細かい気配りは圧之助会長以上といわれ、それだけに会長の信任枕木の製造販売は、昭和24、5年頃から始まり、29年頃まで盛んに行われた。一時大阪市交通局の枕木は、ほとんど今井から送られたものになったという。買い付けは、三代目工場長・西谷休;台郎を中心としたメンバーで、巴智都内の山々から木材を買い集め、大阪、そして東京へ送った。この一点集中型の商品流通化の成功も今井産業に大きな収益をもたらした。・・・・・・・-~~~;週j嗣c-1-が厚かったという。江津駅のすぐうしろに家がありながら、仕事で毎日のように江津の山陰合同銀行、江津信用金庫(現日本海信用金庫)にお金の出納に通っていたが、会社ヘ帰る列車の待時聞が1時間以上あろうと一度も家に立ち寄らなかった。「お金を扱う人聞が公私を混同すべきでない」が口癖だった。今井産之助以上の商売人だった。今井カズコさん今井会長夫人で、元取締役。金物業時代から今井庄之助を助け、その内助の功ぶりは有名。しかし、「いまの今井産業のもとをつくったのは、おふくろ(今井カズコ)が卯%では今井産業のやり方の一つは、現金取引ということだった。山の木を買う場合、先方の座敷の上に、札を一枚ずつ並べて座敷いっぱいにしたことがあったという。大きな現金が不足したときは、懇意にしていた山藤呉服店で用立ててもらったこともあるという。山を買う場合に一番大事な「信用Jが客先にもその周辺にもあり、それが今井産業の大きな資本で‘もあった。枕木など木材販売の中で、木炭の需要をいち早く察知し、確立した流通ルートで送り出した。木材はトラックで運ばれたが、木炭は主に鉄道を使った。時代を見て主力商品を変えていくやり方は、今井商法の特徴でもある。「今井の木炭」は、やがて、関東方面でも使用されるようになった。ないかと思う」(花木専務)という証吾一戸があるほどで、内助の功を通り越して実業でも人知れず腕をふるった。商売についての情報が人一倍で、頭の回転が速く、判断が的確だったらしい。今井会長は重要な場面でしばしばカズコの判断を聞いたという。しかし、会社が大きくなり、組織が確立されてからは一切仕事に口を出さなくなった。「おふくろがこう言ったのを覚えている。金物屋の時代は私一人でもやれた。しかし、材木屋になって人をたくさん使うようになると私にはできない」と。(今井聖造専務)身の引き際のよさも事業家、庄之助の大きな支えになったのかもしれない。.--・E・-・閏,~祖国・・・E・E・---製材工程から出る余材を生かす方法がないかと考えていたところ、山陽国策パルプでチップとしての利用が可能であることがわかった。これは雑木も使えるので収益上も好都合、今井産業の製材工程の合理化の上で非常に役立つた。ちょうどその頃、広島県福山市の中国機械にチップ製造機械(ドラムパーガー)の試作品ができることになり、当時チップ工場の責任者だった故仁科健がオートパイで視察に行くなど、会社全体が並々ならぬ意気込みで沸いた。1973~-1984年75・成長創

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