いまいひと物語
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木造建築から鉄筋建築ヘ急成長の道を歩む。木材を扱っていた今井産業が建築業へ進出するのも、自然な流れだったかもしれない。ただ、資材はあっても人材がいなかった。桜江町、江津市など地元の建築会社の協力があったからスタートできたといえるし、社内スタッフの急速な成長ぶりも大きかった。RC構造で谷住郷小学校を建設したとき、さらに社員の大きな成長があった。設計事務所(例えば尾川設計事務所)との人間的なつながりも大きかったといわれている。ここでもH人の今井μといわれる所以である。木材加工のクオリティーを生かして住宅事業ヘ。昭和訂年の江の川大水害により、本祉事務所、製材工場はすべて流失してしまった。3カ月後に業務は再開されるが、災害復旧工事として工場敷地の半分以上が用地買収区域になったため、浜岡市の製材工業団地に進出することになる。昭和特年3月に事務所を建設したが、当時①外材チップ工場案②ミサワホlム部材工場案があり、結局今井会長の人の縁によりミサワホlム協力工場としてスタートすることになった。昭和抄年7月、ミサワホームの別番目の工場として生産を開始。昭和日年8月には、県下で峨一、通商産業大臣より「工業生産住宅等品質管理優良工場」に認定され、平成帥年6月にはIS09002の認証を取得した。その﹇グループ化の決断﹈時代とともに広がる企業のエネルギーの枝葉をただ維持するのではなく、挑戦から飛躍のフィールドにする。それが、今井産業のやり方なのだ。山陰産業昭和m年、東京市場への木材及び木炭の販売会社として東京都江東区木場に設立。今井久祥社長が東京深川で150坪の土地を買っていたことも設立の大きな要因になっている。初代社長は金物業時代「繭容器」で大変お世話になり、当時、片倉工業江津工場長の茅野睦男氏。やがて、産業構造の変化と今井産業の建設部門の成長・拡大に呼応するかのように、村年には本社を因原に移し、生コンの製造販売に着手する。判年には因原工場がレディーミクスコンクリートJIS表示許可を受け、日年には、制年に別会社として設立されていた今井コンクリートを吸収合併し、コンクリート2次製品の製造販売もする。平成3年、山陰産業の最初の本社地だった東京都江東区木場に今井東京ビルを建設すると同時に、生コン事業部は今井商事に移管。現在の事業内容は、その東京ピルを中心とした不動産賃貸業をおこなっている。今井商事昭和”年、この地の砂利採取業として設立、初代社長は今井庄之助。当初の社名は今井商事商店で、粉炭と採石、そして砂利採取を手都けた。また、特年には給油所の閥設など、主に邑智郡一帯にエネルギー揮の供給に力を注いでいる。昭和刊年代、粉炭工場はチップ工場と隣接しており、原料はそこで発生するHおがくずHH木皮uなどを使った。製品は主に関東方面へ鉄道輸送され、ががくずHからでき薬品となるものは、藤沢薬品にも送られていた。また、木皮の粉炭は着火剤に用いられていたようだ。平成2年には、浜田にも給油所を開設。翌3年には山陰産業の生コン事業部を受け入れし、石見地方一帯にエネルギーの安定供給につとめている。祥洋建設県内港湾業界の中でも最も古い歴史をもっ建設会社であった長沢組が、昭和“1日年頃より経営上行き詰まり、今井久祥社長はじめ当時の経営陣が再建に乗り出した。当初1億円と見込まれていた負債が、実際には3億円以上あり、今後同年間の返済計画を立てたが、約3年で完済。ちょうど三隅地区の開発工事等の追い風も幸いしたというが、花木安治専務はじめ、現在、祥洋建設の中田進専務(当時は今井産業浜田営業所長だった)など見事な経営手腕で再建を果たした。昭和ω年まで、長沢組として事業を展開するものの、平成元年より祥洋建設と社名変更。現在港湾建設工事はもとより陸上建設事業にも力を入れている。不動産システム県内屈指の流通企業・原徳チェーンとの共同出資成長編l昭和48年~l附利59年・72

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