いまいひと物語
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通量圃圃晶画面ー画酬一一『らが内地材の将来を考えて反対、中止させている。庄之助は激怒したが、時の若手首脳陣が苦悩しながらも、当時の状況、時代の行く末を読み、苦渋の決断をしたのである。欠損を最小限にして瓦製造から撤退した。経営が困難に陥っていた宝窯業の再建を頼まれ一時期、瓦製造業にも参入したのだが、経営環境を慎重に調査した結果、事業再開は不可能と判断した。再建作業を継続しようという考えがあったものの、本来の事業に専心してさらに実績を大きくすることを決意。損害を最小限に抑えて撤退したのである。時代の行方を洞察してゴルフ場開発を中止。今井久祥前社長が持っていたゴルフ場構想(石見町を、今井久人社長は、開発中断を決意した。今日、多くの施設が経営的な問題、あるいは環境問題に直面しているのを見るとき、思い切った処置の正当性が評価できる。そのIー園、j夫断L-ー」進む第二代社長今井久祥新しい分野への進出は、人材と資本力、そして組織がなくてはできない。今井産業にはそれらが揃っていたのか、さらに新しいものに立ち向かう勇気があったのか。舗装事業への進出は、早い情報入手からだった。舗装業へは昭和利年に進出した。今井庄之助が県会に出たこともあって、色々な情報を入手することができたのか、舗装業界への進出を決意したという。しかし、まったくの素人畑。当時、花木安治専務らが九州に行って一週間缶詰状態で勉強したという。しかし、そうした苦労も、国道9号線の舗装が始まる好タイミングと重なり、大手ゼネコンと一緒に仕事を引き受け遂行したことも、以後の大きな自信になった。土木事業ヘ、木材業の知恵を生かして進む。71・成長編11973年~1984年木材を扱うとき、各地の営林署とのお付き合いは必然的に多くなる。そのとき、営林署の中で、林道など土木作業の発注があることを知った。木を伐りだし、運ぶことに力を入れてきた今井産業は、逆に述べれば、土木事業に最も近いところにいたわけである。

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