いまいひと物語
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東京の木場に150坪の土地和お年(1958年)に事務所斗を造ったほどですから。そうしザた東京の拠点に、桜江町から木材東京圏で売ったわけです。仁瓶経営者として大変な決臨っていましたね。今井いま考えると、兄が幻歳市す。私らから見ても、すごいですAがあるというか、前へ、前へという意欲がある人問。仁瓶社長と同じ、当時としては地方でまだ未開拓の分野ともいえる舗装業に入ったのも、早かったですね。仁瓶そうそう。私のところに来て、舗装業のことをつぶさに聞いていきましたよ。「どうなんだろうか」と。私は、「いい仕事だよ」と答えたのですが、実際、今後地方では舗装の仕事は広がっていくと思っていました。それからすぐ、日本道路建設業協会に入りたいから推薦してくれと。ええ、もちろん推薦しました。友人として誇れる人だし、立派な建設事業人だし、地方、とりわけ私の故郷でがんばってくれる人だし、太鼓判の推薦状を書きましたよ。経済の基本は、人の暮らしに近いところで、ものを創る仕事だ。東京ビルの竣工祝賀会にて(平成4年10月)今井ご推薦いただいてありがとうございました。遅ればせながらですが。(笑い)思いだすと、父と兄は、相当肌合いが異なった人間同士でした。父は仕事一筋ですし、兄はおおらかというか細かいことをあまり言わない人問。それが、ただ一つ似ていたのは、人から頼まれるといやと言えないことでしたね。仁瓶久祥さんは高校の頃から温厚で親分肌のところがあったけど、口数は少なかった。それが、実業人として出会った時には温厚ながら雄弁になっていましたね。やはり地元でいちばん大きい建設会社を率いていろんな場面を経験してこられたんですね。いま言われた、頼まれていやと言えないという性格、これは大変なことなんですよ。今井人のお世話はするけど、それでなんか人にしてもらおうという期待をすることはありませんでしたね。仁瓶そこだと思います。久祥さんの名刺を見ると、随分役職名がありました。とりわけ、地域でいろんな人々の期待をになっておられる立場だとわかりました。私は思うんですが、リーダーというのは公平というか偏らない判断ができる人です。久祥さんはそ-ついう人柄があり、みんなが安心し、頼み事をいっぱい持ち込んだものでしょう。今井そうした中で、石見地区は産業が少ない。当社は地域の発展の大事なとこーが翠護福亭~祖国圃圃園田官協静いん中仁’,}..f!:""ーでー竺量・・・圃園田監安三議な目安わ仁ろてに央瓶,~3減車--邑a・・・・・・・圃脳ぷ;:1い本ヲれ瓶をももで議題灘越贋冨量E・・・・・・・・・・・・Mんのくた担~ ~ f Z溜瀧望~~i~~~1 い=ば意事業の本拠地桜江町江の川と桜江大橋正は工ものかもぷり戸い我宮あ業主宅握手ぞ旨4t:~r~会キ包会~~長i1 ~百Jて京己量点2退手Zせさする暮創売りいだし3、気11;~1li有i;illtlil!i~lt見祥私っ手のだてりは事こるはていがてさもて矢仕と、を。なろ。もきけ刀:お百63・成長編I1973年~1984年

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