いまいひと物語
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業界では早くからよく知られていた久祥社長。今井兄(久祥社長)と同じ、島根県浜田の浜田高校のご出身でしたね。私は高校は遣いますが、ずっと後輩で凶年も離れています。仁瓶そうですか。私達は、戦争中の旧制中学校が新制高校になった頃でしたね。食べることに汲々寸lーしていた時代で、久祥さんと一‘罰野校庭の隅でいろんなものを焼一.庫区いて食べたこともある。何を駐留・・食べたかは言いたくはないが。.... (笑い)... 今井高校を卒業して兄と再会されたのは、随分経ってからとか。仁瓶ええ、高校の同窓会でね。でも、会わなくても、久祥さんのことはよく知つ新船建造のとき船上にて記念撮影(昭和63年4月)との人域央設地中建ていましたよ。建設業界では名前がよく知られていましたから。地方でがんばって、立派な会社に仕上げていかれたわけですね。今井奇しくも同じ商売の道にいたわけですね。仁瓶成長編||協和48年~i昭和59年”62そうなんです。私は、戦争に負けた日本を復興するため、又経済や人々の生活をよくするためには、やはり国土の建設だと思った。そして、この道に入ったのです。久祥さんと久しぶりに出会ったときは、中央と地域、居る場所は違ってもまったく同じ道。まさに仲良しの二人が、同じ志を抱いて生きていたのです。今井さんが「こうだね」と言うと、私が「そうだね」と言う具合で、久しぶりでもすぐ話が合いました。思えば、地方で活躍されていても、中央というか、全国区の視点を持っておられたんじゃないでしょうか。東京と島根たとえ活動の舞台が違っても心は通じあっていた。もと兄は大学進学が希望で、へ出たかったのだと思います。人(今井庄之助会長)が、事業は大学に行く必要はないといてのかわり当時のお金で2OAし、自由に事業へ役立てるよりです。円んはそれに、移動製材00万円を足して400万したのですよ。その頃の40うのはすごい金額で、何しろ

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