いまいひと物語
47/129

浜田市の住宅事業本部。1978年通商産業大臣より工業生産住宅等品質管理優良工場に認定される1809002認証取得当時のスヲyフ会議。よりよいものを求めて白熱の議論が起こった。Uタ!ン組を交えた豊かな人材。「東京の工務店で修業していたが、家庭の事情で故郷に帰り、今井産業に入社した:・」(本社・山崎施工本部長)という、いわゆるUタlン組の目は、土木、建築、舗装などたくさんの業種を持つ今井産業に向けられることが多かったと言われている。昭和同年(1975年)当時で資本金が6600万円に達し、資本の充実と並行してH人材uの確保養成充実にも力を注ぐようになっていた。いまからお年前の桜江町の町史(昭和村年発行)にも次のような記述が見える。「土木・建築・舗装全般にわたり、町内で代表的な施工は谷住郷小学校、また、浜田と川本にはそれぞれ道路舗装用アスファルトプラントがあり、その請負工事も261号線を始め、邑智、那賀、浜岡市及び江津市の約ω%を占め、その従業員たちも、速くは有福・市木方面からマイクロバスで通ってくる・・・」今井産業は、多様な分野に進出していったことで、多くの専門職を抱えることになっていた。地元の工事は地元で受注し、施工ヘ。組織、人材が整うと、総合建設業として、官庁、企業の信頼が高くなる。その信頼、期待の高いうねりは、実際、売上高の推移に反映されていた。昭和問年(1975年)が約お億円、昭和臼年が約幻億円、昭和M年が約日億円、昭和町年が約帥億円といううなぎのぼりの数字。後に今井久祥社長(昭和利年、今井庄之助社長が会長職になることにより、就任)は言っている。「地元の工事は地元で受注し、施工する時代だと思います」満を持した態勢と考え方のもと、建設事業に対する自信が今井産業の中にみなぎってきた時代である。2・sしきずいどう今井産業初のトンネル工事、f言喜隆道。61-成長編I1973年一1984年悶国D 悶

元のページ 

10秒後に元のページに移動します

※このページを正しく表示するにはFlashPlayer10.2以上が必要です