いまいひと物語
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水害のとき、今井会長と私の親父はここから一歩も退かなかった。明治人の気骨だな。能美晃さん(能奨酒店・元桜江町機会繊長)今井産業の皆さんの思い出はたくさんあってどれから話そうか迷うくらいだ。それくらい地域に密着した会社です親父に聞いた話で、いまでも記憶に残っているのは昭和18年の大水害のときのーシーン。だんだん水が増えてきて、今井産業さんからうちの家に今井庄之助会長が避難しできなさった。親父と木材の関係て親交があったからでしょうね。水がどんどん場えてきた。:Ii討をはうちの二階まで上がってきたんです。みんなはさらに高いところへ巡縦してLべ。だが、今井会長もうちの親父ももう一歩も退かなかった。みんなが避難をするように言うのに…がんばって聞かなL、その話に、明治生まれの男の気骨のようなものを感じたものです。今井会長の諮厳実直さには定評があったが、二代目の今井久祥社長は今度は人当たりのやわらかい人でしたね。誰もが認める、とてもLミい人でした。とりわけ周辺へ気配りのきく人だったと思う。こんなこともあったな。私の家に尾形光琳の蒔絵付きの文箱があるのを人づてに聞いて来なさった。そもそも美術品についてはたいした目利きで、後に今井美術館を計画するほどの人です。その前社長が蒔絵を見て、こう言いなさった。「これはたいしたもんだ。もし、売るなら1千万円でも買わしてほしLリ正式に本物かどうかの鑑定もされていない絵ですよ。ただひたすら、57聞激励編11958年~1972年美しさに対する価値づけをなさったんだね。びつくりしましたが、その後の言葉にはもっと感動しましたね。「能美さんがお金に不自曲されてpるのなら、買わしてもらうが、困っておいでにならんのだったら、家の宝としてとのまま白いておカ通れたらどうですか・--」無理illり買おうとなさらないのです。自の前の自分のことを考える人ではなかったんですね。相手の乙とをまず考える人…。ええ、いまもその文箱は家にあります。今井前社長の温かいお言葉と一緒にね。時代は変わっていきます。今井産業さんの人の気質も変わっていくかもしれない。でも、創業者の気骨、二代自社長の温かさ、そんなととろの社風は、ずっと残してほしいですね。社員さんのためにも、地域の私らのためにも。

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