いまいひと物語
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水に浸った桜江町川戸。右手に桜江大橋の上部が見える。その左手(写真中央のやや右の部分)が今井産業の製材工場。今井産業株式会社専務取締役住宅事業本部長坂本重定(,ti・-l会長の「また、やろうで」の言葉に全員が発奮。・' a九占凪盈置圃圃圃圃塵竺トW『:水が引いたあとの桜江大橋付近。左は被害状況を視察する湯浅町長(当日寺)。昭和47年7月の水害の日のことは一生忘れ.ないでしょうね。朝411寺に今井久祥前社長が電話をかけてこられて、「水が増えてきた。川戸(会社所在地)へ行乙うと思う」。前社長の危機感が手に取るように分かりましたから、すぐ車で同行しましたね。途中まで行くと道が水に浸かり進めない。車を捨てて徒歩になり、やっと)||戸に着いたものの、水が増えるばかり。手の施しょうがない。それでも作業をしていたが、水の勢いは増すばかり、身の危険すら感じるようになり、同僚3人と共に、皆ずぶ濡れで、慨にあちこち冠水している三江線の線路を歩いて約3時間、夕方に江津へ!帰り着いた。さあ、水が引いたものの、それからが大変。社屋、工場は流され製材機械は泥と砂利の河原に点在と云う状況で、正直言って、私は「今井産業もこれまでかな」と思いましたよ。口にはしないまでも、llftもがそう思ったのではないでしょうか。そのとき会長が全員を集めて言ったのです。「また、やろうで!」泣いている人忠、ましたね。自宅が水に浸かっている川戸の社員も大勢いましたから、そうL、う人たちへの励ましの言葉でもあったのですね。思いました。この人は負けない人なのだと。つねに前に向かって、走り統ける人なのだと。ではない。刻々と水量の増えてくる状態にトラック2台を川戸駅のプラットホームに上げるのがやっとだったという。このトラックも水位“mの水ではどうしょうもなく、水の中に沈んでしまった。水が引き、会社があった場所へ行くと、多くの社員が詰め掛けていた。しかし、見るものはなかった。社屋、工場は流れてしまい、砂の上に上流から流れてきた木の根が転がっている惨状だった。しかしそんな中でも庄之助会長は、泥に埋った製材機械を掘り起こすよう指示を出していた。自らを励まし、そして社員を励ますように:・。そのとき、建設業ヘ本腰を入れる決心をした今井久祥社長。創業者・今井庄之助会長をH商売人’と呼び、二代目・今井久祥社長をH事業人Hと呼ぶ人がいる。ひたすら刻苦精励し、一つの仕事の道を天命として極めた会長と、一方、精励の姿勢は受け継ぎながら、新たな事業の道を模索した社長の二人を評してのことである。水害の現場で、H事業人’久祥社長は、このままではいけない。大きな転換をしなければならない。そう思ったという。当時専務だった今井久人社長と圧之助会長を交え何度も何度も話し合ったという。そして木材事業は、すでに5千坪の用地を買収してあった浜岡市に移した。初めて決算で赤字を出したため、5ヶ年計画をたてて、-あらゆる借金をゼロにする、-手形振り出しをやめる、などを目標として掲げ実行に移した。このH無借金主義Hはその後の伝統となる。また建設業への本格進出の決心をしたのもこのときであった。51・激励編11958年~1972年

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