いまいひと物語
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一歩先、一歩先という姿勢が、ちょうど時代にマッチしたのかもしれない。昭和お年に土木をはじめ、昭和犯年に舗装をはじめるなど、木材業を営みながらその他の仕事にも進出していきましたが、これはこの地域としてはかなりの積極的な姿勢ですよね二歩先、一歩先という動きですから、おだやかな地域としては目立ちます。そこには先々代(今井庄之助会長)の時代を見る目の確かさがあったと思いますね。中央の動きをしっかり見ている目が・・・。生コンをはじめるのも早かったが、これはいろんな関係筋の方からの声もあってね。ダム工事がはじまるからやった方,かいいと。実際そのとおりになり、需要がしっかりあって売上げを伸ばしました。そういう内と外の目や情報、アドバイスが上手く調和して、今井産業は時代にマッチした、総合建設企業としての業務の形態をとっていくことができたのだと思います。ふ-裕一一ーム株役Af業締.!産取判η井表L、.守今代A07有限会社吉岡建設会長元桜江町会議員吉岡誠さん万国博覧会建設業の夜明けの頃ですよ。私は大工仕事が専門でしたが、今井産業では木造建築の歴史がないのです。いきなり鉄筋コンクリートの建造物に入っていったわけですね。だから、私ら大工スタッフの最初の仕事は、コンクリートの型枠柄つくりですよ。(笑い)鉄筋の建物の建築現場へ型枠専門チームのような形で加わっていたんです。今井庄之助会長は、いま考えてみると、相当神経を使っておられたんでしょうな。新しい仕事についての技術や設備関係や段取り、人の配置などについてね。よく会長の家で晩飯をご馳走になったが、始めからしまいまで仕事の話ばかりですよ。飯が喉を通らんことも。(笑い)とんな会長の気持ちが通じたんでしょう。みんなよう仕事をしましたな。会長の指示で残業はしてはならん、ということになっていたけど、一方で仕上けの期日は守りたい。いろんな事情で約束の日に間に合わないことがありました。そこで、夜からやって、次の朝の8時に仕上げた。朝の始業の時までは前の日のうちだという理屈でね。(笑い)会長には叱られたけどね。まあ、そんな風に会長、私らもみんな燃えていたんですよ、あの頃は。よそに負けていられるかという気概があって、そしてみんな成長したんです。会長の家でよくご飯をごちそうになったが、最後まで仕事の話というおかず付きだったですね。49・激動編11958年~1972年

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