いまいひと物語
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一一____.人で歩くより、みんな一緒に歩くほうがいい組織型経営のもと土木建築業。。今井庄之助の口癖の一つに「組織は人なり」というのがある。金物屋をはじめた時代はカズコ夫人と二人三脚で、木材業の経営ではスタッフを揃え、また人材を育てた。そうしたH人中心μ主義の延長線の上に、組織的な経営の道を探った。それは高度成長期を見据えた土木建築への転進のためだったのか。先を読む目、が、あらかじめ繁栄を呼び込んだ。時代の変化の訪れに合わせて企業を変えていくやり方と、時代を予測して予め企業内を整備編成をしておくやり方があるという。この後の数々の場面でも証明されるが、圧之助は、後者のやり方をする人であった。すでに述べたように、大阪で金物(繭容器)を売っている最中の昭和同年代に、川戸村近辺で山林を買い始めた。やがて木材業を始め、需要に応えた。戦後の木材統制の解除の後、木材業に専心した。それから同年を経た昭和初年(1955年)、鹿島建設から当社に入社した青木新一らの進言もあって会社の業務目的を「木材及土木建築請負業並び之に付帯する一切の業務」に変更した。木材業は維持しながら、土木建築業を加えるというものである。3年後の問和お年、建設大臣登録第2736号によって正式に土木建築業に入っていく。多くの企業が県知事登録であるのに対し、大臣登録であり、いま述べたように先を見て準備していた様子がうかがわれる。この後、高度成長期といわれる時代(昭和何年1打年頃)を迎えるのである。土木建築の仕事は大量に発生し、会社の成長期を形づくった。土木は、日本の近代化の礎だった。戦後の土木建設は①終戦の混乱から立ち直りを見せる時期(昭和却年1M例年頃)、②高度成長期(前述。昭和何年lU年頃)、③オイルシ激動編il昭和33年~l協和47年圃44’E・創圃町内の谷住郷小学校は、愉土木建築の今井”が生まれたt頁の象徴的存在だ。現在も美しい姿が健在。

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