いまいひと物語
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木材問屋の本場、東京・木場に進出した今井産業に掲げられていた看板。の手が差し伸べられた。それは、温泉津の金属資材関係の問屋さん、大島屋商店を中心とする援助の手だった。とくに大島屋商店はまったくの信用貸しということで書類も何もなしに大量の工場再建資材を送ってくれたのだった。この熱いH友情’のお陰で今井産業有限会社はまもなく工場を稼働させることができるようになるのだが、庄之助をはじめ会社幹部がこの時知ったのは、いままで事業を進める上で大切にしてきた今井産業株式会社専務取締役建設事業本部長花木安治「厳しい経営の中で出会った恩だから、いつまでも変わらない義でお返しをせえや」これは、おやじさん(今井庄之助)が私に言った言葉ですよ。今井産業有限会社発足直後のH召和24年に重量った大火災。工場が全焼して丸裸になってしまった。このとき、大島屋の和田伯社長が貨車2両分のトタンや生]、パラ線などを送ってくれた。ええ、いまの和田俊二社長、要助常務のお父さんですが、「代金はあるとき払いでいいですよ」と言われたのだそうです。厳しい局面でしたから、このときのことが頭を離れなかったので、しようね。私によく言ってました。「花木や、大島屋さんにだけは義理を欠いてはいけんで。大切にしてくれよ」と。日頃厳しい見積もりをとっていた親父さんだったが、たしか大島屋さんにだけはそんな見積もりなんかはとってなかったんじゃないかな。他の会社の人に不公平だと叱られるかもしれないが、それだけ恩を感じ、感謝していたんですね。皿i置H信用uという事が、思わぬ事態でお返しをいただいたという思いであった。・-正確無比を旨とした今井産業の木材の寸法。この姿勢で獲得したH信頼へ鋸で丸太を切削加工する場合、その鋸の歯の幅(当時で、約制寸H約ωm)があるので、たとえば、4寸(約ロm)の柱は実際にはけ寸(U・7m)か、日寸(U・4m)の柱になってしまうのだった。しかし、今井産業では庄之助の陣頭指揮のもと、歯の幅分を計算し、そのうえで鋸で挽くことにしていた。いわゆるH挽き減り“がないのである。「一寸の狂いもない」という言葉があるが、それは実質の意味でも、抽象の意味でも、まさに今井産業の製品を表す言葉であった。製品の規格表示(制り込み)を、庄之助自らか、庄之助の指示によって工場長(辻亮太郎さん、西谷休治郎さん)が行ったから、ますます製品の寸法は正確無比だった。こうして地元はもちろん、新しく販路を広げた大阪、東京でも、「今井の木材製品」は評価を高めていった。庄之助自ら刷り込みをした製品は、日本の真ん中でH信頼’のをブランドに育っていったのである。37・試練編11938年~1957年<'.:~-.-~ .\曾込ヶ会吋:を·•·ぞ-~この頃の経済白書は「もはや戦後ではなし、」と書いた。写真は普友が進んだテレビ。固』a『哩司

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