いまいひと物語
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商品販売の中から、一一一一一一』‘次製品づくりへの憧れ。木材業に転進した理由。日本一の商都・大阪で体験した商売の難しさ、厳しさ。荒々しく採まれた中で得た自信も、また大きなものだった。そんな中で庄之助は思った。商うことも妙味だ。しかし、商いの奥にある一次製品はどうだろう。しっかりと地に足の着いた、もの申つくりの仕事はもっと妙味があるのではないか。こうして、木材業は、故郷・桜江に本拠を置いてはじめられた。一次製品・木材に眼をつけた庄之助。試練編11協和13i下~l昭和32年・32圧之助が片倉製糸へ繭容器をせっせと作って納めていた昭和初期の大阪は、市域拡張が行われた後で、経済の発展がめざましく、「大大阪繁栄時代」の様相を呈していた。大正口年に起きた関東大震災後の、復興のための後方基地となったこともその背景にあったのだろう。そして、昭和9年秋には大阪市そのものを室戸台風が襲った。死者1678人、負傷者8656人という悲惨なもので、建物の全半機と流失を合わせた数は、3万余。庄之助はその後の市域復興のために、木材市場が大車輪の忙しさになったのを目のあたりにしたはずだ。ふるさと石見地方にふんだんにある優れた杉材、松材、桧材などを思い浮べたのだろう。「島根の黒松」などは全国区の一流日間だった。こうした木々を人々の暮らしのために役立てたい。折しも金物販売の方は、戦時色が強まって材料の入手が難しくなったこともあり、だんだん店の維持が困難になってきた。売ることから、一次製品を創ることへ、庄之助の新たな挑戦が始まった。すべての木材製品に印された⑤マーウ。昭和47年の江の川大水害のときは、東北の海岸に流れついた木材のこのマークをもとに、問い合わせが来たとし、う。川戸村(現桜江町)に本拠を構えた理由。金物屋は昭和凶年頃まで大阪で維持するが、その前、昭和日年、川戸村(現桜江町)に木材業(製材業)の今井材木店を開業している。以

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