いまいひと物語
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今井産業株式会社代表取締役社長今井久人「この金網の収益が、今井産業発足の元手に、言葉を代えれば礎になったと思L、ますねJ無謀に近いことですね。江津の平問屋商店とL、う金物と雑貨を抜うお店で、丁稚奉公をした知識と経験だけで、駅前通りに金物店を開業したんですから。昭和3年のことです。当H寺は、J;!iにお客が来るのを待つというような、おっとりしたものじゃなかった。リヤカーに金物を積んで、ひとつひとつ商品を売り歩く商売で、した。西は浜田市、東は温泉津町まで歩いたとLミうから尋常じゃありません。店番はもっぱら母(カズコ夫人)がしたらしい。その頃から有名だったらしいのです。働き者の夫婦として。今井産業とLヴ会社を持ってから度々見せたガンパリズムも、金物屋の売り歩き時代に培ったもので、しよう。片倉製l糸にI備容器を納めて成功したのは、そんな働き者へのご褒美だったんじゃないでしょうか。ともかく、ここに今井産業の今日の礎があったんで、す。この江津て、の成功を持って後に大阪へ進出するんですが、江津、大阪での収益が今日の今井産業の元手になったんだと思L、ますね。もちろん商売についての自信も、その元手に数えるべきものです。のち、工場で使う金物類を一手に納入するまでになったのだが、仕事の事しか頭にない庄之助を、なぜか茅野氏は親しく接してくれたようだ。庄之助の仕事ぶりを、後の人が「休まない商売」と呼んだが、目の前にある時間のすべてを仕事に没入するタイプだった。石州商人の典型でもあるのだろう。その圧之助が、江津工場内の、繭から糸をつくる工程を歩いていたとき、ふとあるものを見まゆつけた。繭を入れる金網「繭容器」だった。認められた金網製品と人柄。たぶん茅野氏に聞いたのではないだろうか。「これはいくらでしょうかの」。そこから、庄之助の商運が聞けていくのである。そして茅野氏にこう切り出したのではないだろうか。「わしならこの金網を、もっと廉うつくれますで。もっといいものを作れますで」さっそく店に戻った庄之助は、見取り図を書いた。何枚も何枚も書いた。そして、商品の一つである金網を使い、木槌でトンカチトンカチ工作をはじめたのだった。たぶん、工場で繭を煮る工程を見てから、そんなに日数は経っていない。「休まない商売」の故である。そして、今井式繭容器は、茅野氏の眼にとまった。その時使われていた繭容器の半分ほどのコストで、使いやすさに優れていただけでなく耐久性がよかったという。大工場にありがちな二克的な仕様の道具に対して、庄之助の道具は、町の金物屋ならではの微細な神経が行き届いていた。(製品は専らカズコ夫人、かひとりでつくっていたようであるが・・・)。そして江津工場の繭容器は、全面的に今井式のものに代えられたのである。25・立志編I1928年一1937年

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