いまいひと物語
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わしならもっとええ金網をつくってみせるで。しかも廉うにな。目先がよくきくか、行動力があることが、成功する商人の才能だと言う。創業者・今井庄之助にはその両方があった:・。そして、その陰には、夫人カズコの力に大きく支えられていたのである。立志編il昭和3年~118和12年・24一瞬のチャンスを逃さなかった「休まない商売」。昭和6年。江津市の海岸近くに、いま「江津市総合市民センター」というモダンな建物がそびえている。直線を主に使った斬新なデザインは人目を引き、江津の新しいシンボルになっている。ちょうどこの場所に、大正日年に操業を開始した片倉製糸江津工場ゆあった。生糸生産が盛んな頃で、大手繊維会社の片倉製糸は全国に工場をネットしたが、山陰の江津にもその工場を置いた。ロ巴智地方の繭の生産量と人材の確保をにらんでのことだった。広い敷地に工場の棟が並び、煙突がそび’え、多くの従業員が地元から採用されたといラJ金物屋を聞いていた庄之助は、商人とし’でごり江津工場と縁を持った。その頃、工場ちのむつお長必得として茅野睦男氏という人が赴任してきたが、この人が、工場に出入りをしていた庄之助のことをいたく気に入ったのであった。この片倉製糸江津工場。山陰線が開通し、三江線が計画されはじめた大正15年(昭和元年)に開設。豊富な水資源と広大な養蚕地帯が工場設置の背景にあった。広い工場跡地には、いま江津市自慢の文化施設やモダンな病院が並んでしゅ。

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